山のシューレの「共に生きる、学ぶ」というテーマを実践していくなかで、自然と人間が共に与えあう場として「庭」という言葉が導きだされ、新たな価値創造を目指す「庭プロジェクト」が始まりました。その成果として生まれたものが「水庭」です。10年間続けてきた山のシューレから水庭に至るまでの経緯と、水庭の持つ意義についてお話しいただきます。
水庭には大小の160の池や樹木、石や苔がある。自然はただあるのではなく、外部にいる人間とのかかわりにおいて発見され、鑑賞される。そして当然そこには空間のみならず、時間の変化も介入する。こうした働きはまるで音楽のように感じられる それは武満の音楽論、時間の感覚にも通ずるものである。上記のイメージから自然とコスモロジーという観点からお話いただきます。
風景は水辺で生まれる ── 最新刊『風景論−変貌する世界と日本の記憶』(中央公論新社)を切り口に、ランドスケープの起源から文学、アートまで、水辺がつくりだしてきた世界の「庭」を、多数の写真とともに語ります。
これまで「山のシューレ」で古神道を取りあげ、場所や土地を巡った神業を話し、「神道形態学」として祭祀の庭から国家への歩みまでをご紹介して参りました。その成果として銀塩写真家集団Phenomenaの写真集『フトマニクシロ・ランドスケープ』の刊行に至りました。 この一連のテーマは「祭祀の庭から」始まり、社稷(しゃしょく)を祀り、国土と食料の豊穣の祈念へ繋がります。 神仙から流れ落ちて来た流水がその力を内包したまま「籠り水」として、水田を満たし、水鏡の穏やかさの中で稲が成長する。 この水田の水と庭園の水を同様に「籠り水」と呼び、成長し立ち上がる力を歴代の作庭家は「庭」に籠めて来ました。 一見モダンな装いを持つボタニカルガーデン・アートビオトープ「水庭」は、水田の跡に設えられ、庭園に不可欠な要素である「籠り水」を引いた正統な「庭」として造られています。我が国の庭園学を支えながら、これまで語られてこなかった長谷川正海を媒介にして、立石と臥石、遣水から「こもり水」を生みだす庭の仕組みに触れていきます。
この六月に、那須山麓は横沢の地、ユニークな芸術家村として、北山ひとみさんと私どもの営むアート・ビオトープ那須に、いちおうの完成をみた、異端の建築家石上純也による「水庭」。それはいっしゅ、自然そのものを素材としてメタフィジカルに再解釈した、瞠目的な、現代アートへの新しい提案にみえる。二十世紀美術の大論点、マルセル・デュシャンを、強く想わせる。古今東西の「庭」は、人間による自然の読解だが、その読みの歴史にも、また現代文化のあり方にも、大きな石を投じるものになるだろう。
自然と人為の融合のなかであらたに景観を創造することを「装景」と呼んだ宮沢賢治。人間社会の抑圧的なシステムから逃れて野生へと赴くことを「歩行」と読んだヘンリー・ソロー。この二人の自然思想家をむすびながら、水庭を歩くことによって社会を編み直すあらたな共同性のヴィジョンへと至り着く可能性について考えてみたい。
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